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俗に“女房一揆”とも呼ばれる米騒動は、1918(大正7)年、富山県魚津町の漁村の主婦40数名による米価高騰に対する抗議行動から始まっている。米価高騰は、前年に起きたロシア革命で日本政府がシベリアに出兵することを見越し、米商人たちが米を買い占めたために起きたものだ。
この一漁村で起きた事件は、周辺の沿岸部諸町村に波及。さらに新聞などで大きく報道されたため、またたく間に全国へ飛び火した。騒動が起きなかったのは、青森、秋田、岩手の東北三県と沖縄県だけだったという全国規模の大闘争であった。中でも、鎮圧に軍隊まで繰り出すなど、その規模が最も大きかったのが名古屋の米騒動である。 |
| 名古屋の米騒動は8月10日、「鶴舞公園で集会が開かれる」といううわさから、鶴舞公園に1万人もの群衆がおしかけたところから始まる。自然発生的に集会が開かれ、終了後、群衆の一部が街路灯などを壊して警官隊とにらみ合いとなった。こうした動きは翌日も続き次第に先鋭化。そして12日に最大の衝突事件が起きるのである。 |
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| 12日夜、鶴舞公園に3万人を越える群衆が集結。集会終了後、群衆はいくつかのグループに分かれて市内に繰り出し、派出所や米穀商などを襲撃した。中でも米穀取引所や米穀商が数多くあった米屋町(現在の中村区名駅三丁目〜四丁目あたり)に繰り出した群衆は暴徒化し、警備に当たっていた警官隊と衝突した。 群衆は次第に増え、丸太や竹ざおを持って警官隊と渡り合い、石や瓦を投げて抵抗。騒乱はさらにエスカレートして派出所や民家を破壊、中には火を放つ者まで出た。 |
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| そのため警察だけでは防ぎきれないと判断した県知事が、軍隊に出動を要請。名古屋の第三師団が出動して、午前3時ごろにようやく市街戦さながらの騒乱は鎮圧された。騒乱はその後、17日ごろまで続き、多数の負傷者を出し、207人が逮捕された。 |
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この動きは当時の愛知郡鳴海町にまで波及しており、14日には騒動が発生している。同日午後9時、浅間神社境内に集結した数百人が町内の米穀商を襲撃したのである。群衆は地主や派出所なども襲撃し、石や木片を投げて騒乱となった。騒乱の規模は名古屋に比べれば小さかったが、多数が起訴されたという。 米騒動は自然発生的なもので、誰かに組織されたものではなかった。しかしこの経験が、その後の労働運動や全国水平社などの社会運動の拡大につながっていった。鶴舞公園の集会で「誰か演説しろ」の声に押されて、最初に演説したブリキ職人の山崎常吉は、後に名古屋の労働運動をけん引することになるのである。 |
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